暗闇のほとりで

読んでいる本についてつらつら書いています

読書雑記 - 金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』

金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み終える。

舌鋒の鋭さと、対象への親愛さを隠さない時の美しさをまるまる楽しませてもらったという気持ちで満たされた。こういうエッセイ集は何度も読んでその経験を追憶して自分も辿りたく、映画を少しずつでも観て、快感を得ていきたい。

 

「釣り上げられる男たち」を読んで、紹介されているハワード・ホークス男性の好きなスポーツ」と、同監督の他の作品を観たくなった。

釣りをする知り合いとの「男性の好きなスポーツ」での会話が不首尾に終わる、「釣りのことはまったく無知でも、映画や小説を好きな人物にこそ、釣りの場面の出てくる映画や小説の話はすべきなのだ、ということを学ぶことになる。」という教訓もまた印象的だ。

そして今回( ? )も末尾の文章を引用する。

おかしみを味わうには、それまでの下りを読んでいる必要が、もちろんあるが、この抜粋からまた「釣り上げられる男たち」を冒頭から読み返して、映画を観て、きっとそのとおりと思うのだろうな。

 

ハワード・ホークスは『男性の好きなスポーツ』で、三つの教訓を男性に与える。

釣りは誰にでも( というより、未経験者にこそ )楽しめるスポーツである( 多少の危険はつきまとうことはあるが )。偶然と幸運こそが大物を釣り上げる、男はどう抵抗しても最後は女に釣り上げられる。

以上が三つの教訓で、これだけ知っておけば、女性は、釣りに関しては、もうシロートとは言えない、と、ホークスは語るのだ。

 

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さて次に読む本はと考え、『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ PART2』へはそのまま行かず、『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』を読み始める。

アッバス・キアロスタミへのインタビューがあるので、そこへ行くまでに、

録画している「友達のうちはどこ?」「そして人生はつづく」「オリーブの林をぬけて」を観ておくことにしよう。

 

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今年の読書の軸は古井由吉金井美恵子の著作だな、と思い定める。

何年も前から著作は買い集めて、あとは読むだけという状態で時間が流れていたが、背表紙を眺める毎に読みたい気持ちがふつふつと沸き上がり、

高止まりのような感じになった今こそ始めの読み頃なのだろう。

ずんずんと読み進んでこう。

 

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これまでほとんど映画を観てこなかったけれど、週に1本は観られるよう、時間を作る。
録画はしていたり、Amazon Primeでウォッチリストに入れているものから、とっぷり浸りたい。

ここは最近の父親の姿を見ている影響かも。
1日3本立て続けに観られるもんなんだなと、今の内から親しみたい。

 

 

読書雑記 - 金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』

金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み進める。

読んでいる時間は朝夕の通勤電車内と昼休みでのおおよそ1時間弱( 読書以外に眠って休息していることがほとんど )、とにかくどんどん読みたいものを読んでいきたい。それにつけても頭の悪い文章だ。

 

『きょうのシネマは--シネ・スポット三百六十五夜山田宏一

『映画--快楽装置の仕掛け』山根貞男

『映画千夜一夜淀川長治山田宏一蓮實重彦

『映画が裸になる時』山根貞男

上記4冊同時の書評(!)より、痺れるというか、おおこれは良いな…と思う文章があったので、引用する。

 

あなたが思う愛や美へ呆れるほどの情熱に身を捧げた甘やかな姿を目にしてしまえば、

こちらは否応なく感化されてしまうというもの、

そういうものに出会いたくて私はページを捲っているのだ、と読んでいてどんどん嬉しくなった。そう、その言葉があれば、読者はいつでも次の世界へ飛び込む準備が出来ているのだ。

四冊の映画の本を作った批評家たちに共通しているのは、読者を映画へと勧誘しながら(読者は映画へと勧誘されながら)、映画について語ることや書くことの情熱をはるかに超えて、「見せたい」という心のかたまりを私たちが感知することが出来、しかもその心のかたまりを幸福な無言によって受け入れることが可能だということなのである。

「これは、さすがのお二人とも見ていないでしょう」と淀川長治が、妖精のようにずるそうにニヤリとして(多分……)言う時、それはお互いの映画への愛に対する敬愛の念であると同時に、見せたいねえ、という心からの真実の声なのだ。

「これを見せたい」という声から「愛」以外のものをかぎとってはいけない。私たちは、頬を輝かせて、「いつでも巻きこまれる準備は出来ています!」と答えればいい。

 

 

読書雑記 - いろいろ読み進み

気づけばここを書くのが2週間経っていた。

どうも平日の半ばから仕事による疲労でへとへとになって、思うように読むことが進まず、よって書くこともなく、うーむ…という感じで日が重なっていった。

 

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2週間、休み休みでいろいろなものを読むことは行っていた。

 

乗代雄介『十七八より』は116ページまで読んで一旦ストップ、今は小説を読む意識から離れてしまったので、回帰したらまた読んでいきたい。

それにつけても冬の間は小説を読む根気がどうも持続しない。もっと読みたい。

 

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kindle unlimited で赤松健A・Iが止まらない!」全9巻を読んだり、

三浦靖冬薄花少女」全5巻を再読したり、マンガはぼちぼち読んだ。

時代性というのをちょっと考えたりした。

 

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小説が頭に入らなくなったので、そういう時はエッセイを読みたい時だということで、

ここが読み頃と金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み始めて、およそ1/3ほど読み進めた。

つまらない、陳腐な、その文章を読んで次の文章へと誘わない言葉に対して、

辛く、手厳しく、モラルに則って辿り着きたい所へ行く文章が、読んでいてとても楽しい、こういうものを読みたいから読書しているのだ。

 

石川淳への追悼文の一つ、「感想」は全文引用したいくらいに、

読むべきものと出会うことの喜びについて書かれたもので、その末尾の文章は、

何度も深く首肯できるものだったので、引用する。とても痺れる文章だ。

--文学のおかれた危機的状況におびえて、小説は変わらなければならない、などと口走る醜悪さと、見事に無関係だった小説家を、私たちはまた一人、失ってしまったということになる。小説や文章の持つ「豊かさ」というものを、どうして、死んだ作家にばかり求めてなくてはならないのだろう。良いインディアンは死んだインディアンだ、とまで言う気はないのだし、人生というものは、自分の好きな作家たちが死んで行くのを次々と経験するということなのだろうし、残された作品はしかし、常にそこにあって読むことがいつでも可能だということなのだろう。だから、誰も死んだりはしていないのだ。本のページを開けば、そこに「石川淳」がいる。すなわち、文章という精神の運動が働き出す。

読書雑記 - 乗代雄介『十七八より』読み進み

 

乗代雄介『十七八より』を92ページまで読み進める。

 

63ページより引用。

地の文に「私」が出てきた!という驚きから引用した。

…いきなり「私」って誰なんだよ!というツッコミを入れつつ、これは、少女が過去を振り返っている回想なのかなと考える。あちらこちらへ詳細に入り組んだ回想をするだろうか、でも叔母から「クラスに佇むスキャンダラスな女の子。物憂げと洗練と、ゾンビみたいな感傷と」と評されもする少女だったら、特段不思議ではないかもしれない。

書かれている内容と、誰がナレーションしているのか、そういった所への興味は読み進める毎に膨れていく。

 

この「適温」に苦しむという弱味がどれほど社交を困難にしてきたかわからない。夏場のリビングに置かれた灰色の首振り扇風機のぬるい風が、私の心を不思議と慰めてくれるのである。どうも、少女といっしょに集中力を失ってきたらしい。

 

読書雑記 - 乗代雄介『十七八より』読み進み

約2ヶ月ぶりに乗代雄介『十七八より』を読み進める。

 

37 - 48ページでの、作中作というのか、
主人公( なのだろうか? )の女子高校生がつけている読書ノートの引用を読んでいて、
そのリリカルさ、いつでもすぐに感傷的へも触れられるような、

地に着いたこっ恥ずかしさが溢れる文章が、

一人語りのラジオを聴いているかのようであり、熱情が迸る感じが妙に楽しく、

そこへ地の文での批評が組み合って、読んでいて不思議な気分が充ちる。

この文章を読んだだけでも儲けものでしょう。

 

この読書ノートは、1年生の時の担任だった古典担当の教師による「朝の読書」での提出していた、進級してからは「朝の読書」が「自習時間」となり、対象が全学年となって自由提出となり、提出者はほとんどいなくなったが、少女は少数派のつける側、とあるが、この内容を提出しているのか…?正気か…?と思うのは、読書ノートの読み手への妙な親愛さを、外部の読み手として一読感じずにはいられないからだろう。この後も引用されるのだろうか。


数回その文章、字面、前の段落を読み返しても意味をつかみにくい箇所があって、
そのまま先へ行きつつ、でも気になってその箇所へ戻って自分なりに理解できるよう考える、これはなかなかに噛みごたえのある小説だ…しばらく集中して読み進めよう。

 

 

以下、47ページより引用。

自分の考える読書、読むこと書くことを撫でられているかのような感覚と、

読み返しても後半の文意をなかなか掴めなくて、印象に残った。

 

一人の部屋で、今一度書き終えたばかりの文章を読み直している少女は、悩みなど全くないように見える。書くことそのものに喜びを見出す性質が、今まさに書いている己を亡き者としてしまう。例えば、水族館への誘いを断られた出来事についての信憑性はかなり疑わしいものがある。数行を埋めるために収まりのいい嘘を書いてみたとすれば、その時彼女は得意である。それでも読後、余白に目を向けた顔が翳りゆくしか道がないように推察されるのは、この一ヵ月の少女の暮らしぶりを鑑みてのことだ。書かれたものというのは、ほとんど一瞬目を離した隙に、作者と読者と世界が鼎立するその中心というよりは重心に巧妙に位置され、今後一切、変動するその位置へと引き離しておくために読まれ始める。いつまでも得意な「善悪の字しりがお」とやらをしてはいられないのである。

 

読書雑記 - 『古井由吉自撰作品 一』より「行隠れ」 読了

 

古井由吉自撰作品 一』より「行隠れ」 を読み終えた。

 

2015年から読み始めて、3編目「旅立ち」の途中で5、6年止まって、
先週読んだ『招魂としての表現』をきっかけに「旅立ち」「落合い」「夢語り」を立て続けに読んだ。

 

末尾の「夢語り」は、「落合い」での旅から泰夫が家へ戻り、

旅立ってしまった姉の通夜を迎えることとなった一日を描いたもので、

両親、下の姉 - 斎子、相互の会話や気遣いの様を読むにつれて、

始めの「行隠れ」のタイトル、冒頭の一文「その日のうちに、姉はこの世の人でなかった。」が肉親へ齎す重さをじんわりと感じて、息をついた。


「夢語り」での泰夫と下の姉 - 斎子の、
寝ずの番をしながら、旅立った姉 - 祥子との思い出をぽつぽつと話尽きるまで語るやりとりが、一時、自分の中に籠もらない、ほっとした気持ちになるのが印象に残った。儀式の必要性というものを読み通して得た感覚。

最後の情景が、そこに至るまでの幻覚であることを泰夫自身が分かっていつつ、
姉が良子のことを口にするのを拒絶するのが、深層の意識として浮かんでいる様かと思い、そして目を覚まして家の訪問者を想像する…、
この先は、読者の想像で昇華していくほかないだろう。

 

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「旅立ち」より、姉と泰夫との会話、227 - 229ページ、236 - 239ページの甘やかなやりとりが印象的で、小説を読んでいて好きなところへ辿り着けた心地がした。

描かれているやり取りは、泰夫の幻覚、心の中で生成されたものか、過去に展開された情景のものか、読んでいて判別としないだけに、その分、どれだけこの姉という存在が泰夫の心に根ざしているのかを知れるとともに、喪失を悟るまでの機微が現れているようで、悲しみが積もりゆくさまが伝ってきた。ここは繰り返し読むことになると思う。

 

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「行隠れ」「嫁入り」「旅立ち」( 前半 )を読んだのは5、6年前で、

内容はほとんど憶えていない。
泰夫と良子の関係性はどこから書かれているのかも分からないけれど、
今回はまず先へ進んでいこうと思って読み返さなかったので、また通して読むことはあるから、その時にどういう感想を持つか。こうしてまた書いていると思う。


続いて、『聖』を読み始める。

 

読書雑記 - 『古井由吉自撰作品 一』より「行隠れ」 読み進み

 

平日の忙しさにかまけて、3日坊主になることは目に見えているが、とにかく読書中に感じたことを書きつけてみる。

自他問わず、読後の感想を読むことが好きなのでたまに書いたりするけれど、

読書中に思ったこと、感じたことを流れるままに記し、後で振り返ることができるようにもしたいなとずっと前から考えていて、twitterでなぐり書きするようにして、

ブログへ転記して纏めるのがやりやすいかなと見て、ひとまず行ってみる。

 

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古井由吉自撰作品 一』より「行隠れ」 - 「落合い」を読み終えた。

地の文から離れて見遣ると、若い男女の気ままな長崎旅行で、夜の繁華街から逸れて坂を登り石段をひらひらと上がっていき、疲れ果てて行き着いた旅館での一幕は、

いかようにも気配を向かわせられる中で( 泰夫も身体として本能としてそちらに向かいかける兆しを自覚している )、

ああも後ろめたさが伝ってくる、襲わせないように寝所をあえて一つにし、唇を交わしながらもセックスは良子がはっきりと拒否して、二人身じろぎもせず横たわる、その様を描き出す夢現の行き来する文章、男女の心情の目まぐるしい動きに読み応えを感じた。

なんというか、息をひそめてその情景を見つめ次にどこへ向かうかを想像する、

普段あまり使わない思考が回転を始めて頭はぷすぷす熱を帯びる、それもまた楽しい。

この先の泰夫と良子の関係性に関心を抱きながら、最後を飾る「夢語り」へ。

 

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今年から当分は、古井由吉の作品を中心に読み進めよう、と決めて、

手元にある本の収録作品や、未入手で読みたい作品を確認している内に、

全集や自撰作品、コレクション等、纏まった作品集を持っている場合は、

それを軸とし、初期から読み進んでいった方が、その作家の築いた道を辿りやすく、また寄り道しやすいと当たり前のようなことが腑に落ちた。

自分が興味を持った作品から読み進めたってもちろん良いが、そうやって作家と出会った時期はもうとうに過ぎて、この付き合い方がしっくり来るようだ。

いろんな補助線を沿ったりしながら小説、エッセイにふれていって、新鮮な感覚を得たい。金井美恵子の作品もそうして読んでいきたい。

 

時間はどんどん過ぎていくので、毎日コツコツと、少しでも、1ページでも、読んでいって、今とは違う所へ行きたい。