読書雑記 - いろいろ読み進み
気づけばここを書くのが2週間経っていた。
どうも平日の半ばから仕事による疲労でへとへとになって、思うように読むことが進まず、よって書くこともなく、うーむ…という感じで日が重なっていった。
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2週間、休み休みでいろいろなものを読むことは行っていた。
乗代雄介『十七八より』は116ページまで読んで一旦ストップ、今は小説を読む意識から離れてしまったので、回帰したらまた読んでいきたい。
それにつけても冬の間は小説を読む根気がどうも持続しない。もっと読みたい。
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kindle unlimited で赤松健「A・Iが止まらない!」全9巻を読んだり、
三浦靖冬「薄花少女」全5巻を再読したり、マンガはぼちぼち読んだ。
時代性というのをちょっと考えたりした。
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小説が頭に入らなくなったので、そういう時はエッセイを読みたい時だということで、
ここが読み頃と金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み始めて、およそ1/3ほど読み進めた。
つまらない、陳腐な、その文章を読んで次の文章へと誘わない言葉に対して、
辛く、手厳しく、モラルに則って辿り着きたい所へ行く文章が、読んでいてとても楽しい、こういうものを読みたいから読書しているのだ。
石川淳への追悼文の一つ、「感想」は全文引用したいくらいに、
読むべきものと出会うことの喜びについて書かれたもので、その末尾の文章は、
何度も深く首肯できるものだったので、引用する。とても痺れる文章だ。
--文学のおかれた危機的状況におびえて、小説は変わらなければならない、などと口走る醜悪さと、見事に無関係だった小説家を、私たちはまた一人、失ってしまったということになる。小説や文章の持つ「豊かさ」というものを、どうして、死んだ作家にばかり求めてなくてはならないのだろう。良いインディアンは死んだインディアンだ、とまで言う気はないのだし、人生というものは、自分の好きな作家たちが死んで行くのを次々と経験するということなのだろうし、残された作品はしかし、常にそこにあって読むことがいつでも可能だということなのだろう。だから、誰も死んだりはしていないのだ。本のページを開けば、そこに「石川淳」がいる。すなわち、文章という精神の運動が働き出す。