暗闇のほとりで

読んでいる本についてつらつら書いています

雑記 - 読書あれこれ、オジロマコト「君は放課後インソムニア」など

 休みの日に行えないことは平日もまず行えないだろうから、行ってみて、平日にもできるように試みる。ということで、掃除と、読みかけの本たちの整理に、ブログを書くことに着手した。

 

 掃除は休みの日にどかっと行って、平日は気になった箇所だけでも行える…なるべく…ようにする。明日は正月休み以来の、読書部屋の掃除を進める。

 

 読みかけの本たちの整理は、いろんなスペースに置いていたものを集めて、序盤で止まっているものは栞を外して棚へ戻し、読みたい順へ並び替えて、改めての可視化を行った。約30冊の読みかけの本たち…気が散りやすいのも大概にしないといけない。とにかく読み進める。

 

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 オジロマコト「君は放課後インソムニア」7 ~ 9巻の再読を終えて、以降未読の10巻を読み終える。ここから完結まで、情景を目に入れていく。倉敷先生と白丸パイセンの、年末の過ごし方とそのやり取りが、大人の始め方で、しみじみ良かったな…。

 

 舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』を読み終わって、ジーン・ウルフ『拷問者の影』を読み始める。十何年も前から読みたいと思ってなかなか2ページ目を開かなかった『新しい太陽の書』シリーズを、いよいよ進める。読み終えるのに何年かかるか分からないけれど、まずは、一周目。

 ガルシア・マルケス百年の孤独』も今年読み始めたいな…夏にだな。

 

 

 

 

 

 

 

雑記 - 舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』下巻、その他

 舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』下巻を読み終えた。

 読んだというか、めくるめく文字列に目を通していたというか…清涼院流水『コズミック』『ジョーカー』を読んだ時のことを思い出したりした。訳の分からなさ - 展開されているルールと出力されているエンジンの異形さに乗れず、ぼうと眺める他ないような感覚…。

 2年前、2022年の GW に上巻を読み、下巻に入って150ページ目辺りで停滞して、今年の GW にえいやで読み終えた。長い読書だった…。

 

 これで『JORGE JOESTAR』を読み進められるかな。

 少し読んで『ディスコ探偵水曜日』を読んでおいた方がええかなと思って止めているので、…年末か、来年の GW  で手に取ろう。止めたのも刊行当時だから、もう10年以上前か…。ジョジョを読んだ方がいいのは、それはそう。

 

 『ディスコ探偵水曜日』第一部 梢を初出の『新潮』2005年5月号発売当時に読んでから、約19年、最後まで読み終えた。19年…もうそんなに経ったのか。
第二部から第四部、当時はこんな小説になるとは思っていなかったので、こうなることがある、と見届けられたのは良かった。

 

 下巻にて『世界は密室でできている。』のタイトルの新しい解釈が提示されていて、読み返したくなった、何度目かの再読、俺にとっての舞城王太郎作品はたぶんここに戻るんだろうな。

 また、この下巻を読んでいて、『淵の王』の語り口、構成が腑に落ちたのは収穫だった。身体と意識と気持ちの入れ替えが、ああいう形式へ発展していったんかなと…。
『淵の王』も読み返したくなった。その前に『深夜百太郎』でホラーをより取り入れていくか。

 

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 久しぶりのここの更新となった。毎日何かしら読んでいるけれど、出力するということはかなり意識的に、時間と疲労に余裕のある機会でないと出来ていないので、そうあれるように、少しづつ旋回しよう。

 次は何を読み進めようかな。

 

 

 

 

淵の王

雑記-阿佐田哲也『麻雀放浪記2 風雲編』

 阿佐田哲也麻雀放浪記2 風雲編』を読み終えた。

 ここ2ヶ月ほど、小説を読めておらず、流れるように小説を読みたいという気持ちになってきていたので、阿佐田哲也麻雀放浪記』2巻を手に取りあっという間に巻の後半へ行きそのまま読み終える。

 少年マガジン掲載の「哲也」を連載で読んでいたので、ドテ子の懐かしい名前と印象がまた変わる。クソ丸もあんな感じでいたっけかな、とぐろは憶えている。

 

 麻雀のルールは一度勉強しようと入門書を読んで、まったく頭に入らず、自身がプレイするもののの埒外にあるという認識をしているので、役についてはほぼほぼ飛ばして読んだけれど、博打で於いてのみ成立する金と尊厳の渡り合いの会話、思考の流れにヒリヒリし、この坊や哲への興味が絶えずつながっていく。子供の頃にドンジャラで遊んでいたはずだが…いつかプレイする機運を得たい気持ちはある。

 

 間を置かずに続きを読むことにしつつ、この巻にてちりばめられていた、勝負事で抑えておくべきことを、ここに抜粋しておく。馬券で良い目や痛い目に遭っている、結局それは自分の選択で引き寄せた結果だけれど、その時に考えていることをより明解に言語化している箇所や本書すべてを繰り返し読むことにより、自分の行っているギャンブル - 競馬や、それ以外の生きていく中での諸事にて参考としたい。

 

以下引用は文春文庫『麻雀放浪記2 風雲編』より。

73 - 74ページ

 私は親で四連チャンしていた。当然のことだが、手に速度がついてくると、相手の手作りが制限を受けてくる。こちらに合わせる手作りになる。これがよろしい。攻撃は最大の防御なりで、相手のペースのときには速く重かった敵の手が、此方のペースになってくると、速く軽い手になる。そこで、もうひとつ私が考えねばならないことは、速いペースにして相手の手作りが軽くなった頃合いに、今度はこちらが重い手を志すのである。

 敵は重い手、こちらは重い手。失敗して打ち込んでも損害は軽微。成功すれば収入多大。麻雀は結局、重い手を作った方が勝ちだが、そのセオリイは以上のような段階を踏んではじめて完璧なものになるのではないか。

 

90ページ

「それもあるがね、奴は皆のツキと勘とを計算してよく見てるんだ。一番アツくて一番勘が鈍ってる奴等の逆目へ張っていく。それも奴等の額に合わしてだ。決して自分の勘などを使っちゃいない。自然の理を生かす、ってさっきいってたが、それがそういうことなんだろう」

 

140ページ 

 勝っているときは、沈まないように打つだけでよい。クソ丸のセリフではないが、リードするまでが博打で、あとは相手によっかかっていればよいのだ。沈んでいるときは自然の風に逆らって打つ。当然のことだがえらいちがいになる。

 

 

雑記-よしながふみ『よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』

 よしながふみよしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』を読み終えた。

 マンガについて、自分の好きなもの、大切なもの、意見の形成の仕方についてなど、濃密な、まさにここだけのお話を読んで、いろいろと蒙を啓かれる感じがとても楽しい。 
 まだ見たことのない仕事の雰囲気について、別の性への憧れ、志を同じくはしないけれど助け合うこともある、…、BL、百合、やおいのそれぞれの意味合いについて、リミッターを外して語り合っているのを読んで、自分も見方について考える、チューニングしている感じが刺激的。
 刊行は2007年、今の時世とはまた異なる価値観が提示されているように思う箇所があって、変わっていったんだな、と思うのと、そこはどうなんだろうな、と思う所と、参照する時によって色合いが変わっていくように思える、興味深い考え方、歴史の紐解き方がここにある。たぶん、大きくは良い方へ向かっていっている、意思の力で。


 羽海野チカとの対談を読んでいると、かけがえのない人との会話、肯定、心遣い、寛容さ、生きていく上で大切にした方が良いエッセンスが満ちていて、これは手元に置いておかないとあかん本と確信。頭を使って物事や気持ちを整理してその頃を語る、目の前にいる人の感情を汲んで展開していく、少しでもこんな風に会話できるようになりたいと思う、良い手本だわ…。

 

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 三浦しをんこだか和麻等の対談を読んでいてつくづく思ったのは、自分はメタファーをそのままの意味でしか読んでいなくて、意味合いを本当によく分かっていないということ。
 作品外で意図が明かされてようやっと分かる、というのは、それはそれで気付きがあるから良いかもだがなんだかもったいなくもあるので、時代や流行の変遷といったいろんな背景と著者の眼差し等、目配せをして読むことができるようになりたい、もっと。

 

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「基本読書」の人の本書の感想。
本書を読んでいておーと思った箇所が引用されていて、そこからの感想がまた視点が異なっていて、こちらも読み甲斐がありそうだ。

 

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

 

 

 

雑記-佐藤正午『小説家の四季 2007-2015』

 佐藤正午『小説家の四季 2007-2015』を読み終えた。

 単行本版を読んでいたので、再読に当たる。この時期を読むと、現在連載中のネタの引っ張り芸( ? )は回を追う毎に磨きがかかっているんだなあ…と感慨を持った。文章芸の一つの妙。

 

 239ページより引用。 

いったい、いつ読んだんだよ、これだけの本、とあらためて自分で自分に呆れる。人生の、どれだけの時間を、読書に費やしてきたんだよ?

 

 事情があって実家に泊まり込んだ際に、自室の本棚を見渡して、整理しようと決めて処分する様、心の声がそこにあり、単行本で読んだ時に思った、「ここだけ切り取ってもだが、ああ、そうだな…と響いた」というのは今回読んでもそのままだった。
 自分はその足元にも及ばない量だけど、本棚を見返すと、今の読書量からは想像がつかないくらい読んでいた頃があったんだなと、やや呆然となる時はある。それはある。
そこに自分を形成してきた面があるからこそ、別の面の広さ、大きさ、可能性をまた想う。

 

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 現在もweb岩波 - 「たねをまく」で連載されている「小説家の四季」、掲載されている分は( たぶん )読んでいる、本書以降の連載分がまとまることを楽しみに待っております。

 著者の小説、もっと読んでいかないとな。読みかけの『ジャンプ』を近々再開させよう。

 

tanemaki.iwanami.co.jp

 

雑記-門馬雄介『細野晴臣と彼らの時代』

 門馬雄介『細野晴臣と彼らの時代』を読み終えた。

 細野晴臣を軸に据えて、1960年代から現在に至るまでの日本のロック、ポップスを事実、当時の記事、当事者たちの回想を織り交ぜて一つの歴史として照射した本で、大変読みごたえがあった。読み始めてすぐに、これはもうおもしろいノンフィクションものが持つそれやん、と嬉しくなった、息が合ったものを読む歓びがあったのだ。それは最後のページまで続いた。

 

 471ページより引用。

 思いかえすと、楽しい思い出がいくつもあった。はっぴいえんどを組む前後のころ、白金台の家で細野は眼鏡と丹前を身につけ、松本清張の真似をしてやってくる彼を出迎えた。狭山アメリカ村時代には大滝に請われ、家の庭でニワトリの物まねをえんえんと披露した。…(後略)

 大滝詠一が亡くなってからの、細野晴臣にとってその存在の大きさに改めて気づく中で、上記の文章がやってきて、吹き出してしまった。想像するだにシュールな情景…その後の記述を読めば文章が配置された意味は分かるけど、おもしろすぎる。松本清張の物まねは多く見かけるあのポーズかなと思うが、その頃のスタンダードな物まねだったんだろうか…。

 はっぴいえんどYMOの作品を齧る程度しか聴いていない身で、音に当たるだけでなく、発表前後の様々な流れを事実に基づいた記述から知ると、その時々の色合いが見えるようになり、違うアプローチで聴く、体験してまた音が響くようになってきた。サブスク片手に膨大な作品群に沿って、自分に合う、これまでとこれからのルーツを探りゆく楽しみが見えてきたようで、この本を読んだ意義は大きい。いろんな作品を聴いていきたいし、細野晴臣が今その時に放っていった作品、言葉を取り込んで、世界を見ていきたい。ということでようやくSpotifyを有料契約した。しばらく広大な音楽の世界を漂っていこう。

 

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 読みたい本や観たい映画、聴きたい曲、アルバムは増えていき、対面する時間、意識が流れていくのはどんどん速く、眠気は増して、一つひとつ向かっていくしかやっぱり道は無し。細野晴臣の作品をもっと聴く、読みたい。

 ラジオは毎週聴いたり聴かなかったりだけど、音楽の広がりを教えてくれる番組はもっと聴いて、手を伸ばしていきたいな。

山下達郎のサンデー・ソングブック
草野マサムネのロック大陸漫遊記」

細野晴臣の番組「Daisy Holiday! 」、

また毎週聴くようなモードになっていきたい。

 

 

 

雑記-矢作俊彦『新ニッポン百景―衣食足りても知り得ぬ「…礼節…」への道標として』

 矢作俊彦『新ニッポン百景―衣食足りても知り得ぬ「…礼節…」への道標として』を読み終えた。

 90年代前半の日本各地の「満ち足りた衣食の対価として」遺された風景を2ページ + 写真の形式でルポを読んでいく内に、同時期に執筆されていた著者の『あ・じゃ・ぱん!』のアウトラインを辿れているような気になった。

 田舎に遺された風景が、バブルを通過しなかった場合、バブルを通過してまだまともな判断がくだされた場合での批評を加えたオルタネートヒストリーとして描かれた側面はあったろうな、と読んでいてまた『あ・じゃ・ぱん!』の作品が頭の中で立ち上がってきて、それがとても楽しい。読者への要求が無尽蔵に高くて追いていくのにいっぱいな作品だったけれど、この本で著者たちが見て、聞いて書き記していった知識と情感( 私怨?もあるか )を仕入れてみると、また見え方が変わっていくようだ。千葉への痛罵がなんとも…。

 日本各地に出向いているので、東京や大阪のへんてこな風景もあるけれど、田舎に遺された風景の回を読むと、殊更に橋本治『貧乏は正しい!』を思い出す。あちらも90年代に書かれた、80年代からの築かれていく、崩れていく、省みられることなく亘っていく価値、景色と、それらを踏まえざるを得ずこれからどう進んでいくかを纏めた、読みごたえのあるシリーズだったと改めて感じ入る。どちらの著者も都会出身、地方出身でのこういった振り返りをしている本はあるのかな。その視点でも読んでみたい。
 この本は1995年刊、28年経った今も、この風景や建物はあるのかな…とGoogleストリートビューで見る、続いている重みを垣間見る。 続きの『新ニッポン百景―衣食足りても知り得ぬ「…礼節…」への道標として ’95~’97』は、読む機会を得られるかな…試みよう。