暗闇のほとりで

読んでいる本についてつらつら書いています

読書雑記 - 金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』

金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み進める。

読んでいる時間は朝夕の通勤電車内と昼休みでのおおよそ1時間弱( 読書以外に眠って休息していることがほとんど )、とにかくどんどん読みたいものを読んでいきたい。それにつけても頭の悪い文章だ。

 

『きょうのシネマは--シネ・スポット三百六十五夜山田宏一

『映画--快楽装置の仕掛け』山根貞男

『映画千夜一夜淀川長治山田宏一蓮實重彦

『映画が裸になる時』山根貞男

上記4冊同時の書評(!)より、痺れるというか、おおこれは良いな…と思う文章があったので、引用する。

 

あなたが思う愛や美へ呆れるほどの情熱に身を捧げた甘やかな姿を目にしてしまえば、

こちらは否応なく感化されてしまうというもの、

そういうものに出会いたくて私はページを捲っているのだ、と読んでいてどんどん嬉しくなった。そう、その言葉があれば、読者はいつでも次の世界へ飛び込む準備が出来ているのだ。

四冊の映画の本を作った批評家たちに共通しているのは、読者を映画へと勧誘しながら(読者は映画へと勧誘されながら)、映画について語ることや書くことの情熱をはるかに超えて、「見せたい」という心のかたまりを私たちが感知することが出来、しかもその心のかたまりを幸福な無言によって受け入れることが可能だということなのである。

「これは、さすがのお二人とも見ていないでしょう」と淀川長治が、妖精のようにずるそうにニヤリとして(多分……)言う時、それはお互いの映画への愛に対する敬愛の念であると同時に、見せたいねえ、という心からの真実の声なのだ。

「これを見せたい」という声から「愛」以外のものをかぎとってはいけない。私たちは、頬を輝かせて、「いつでも巻きこまれる準備は出来ています!」と答えればいい。