暗闇のほとりで

読んでいる本についてつらつら書いています

読書雑記 - 乗代雄介『十七八より』読み進み

約2ヶ月ぶりに乗代雄介『十七八より』を読み進める。

 

37 - 48ページでの、作中作というのか、
主人公( なのだろうか? )の女子高校生がつけている読書ノートの引用を読んでいて、
そのリリカルさ、いつでもすぐに感傷的へも触れられるような、

地に着いたこっ恥ずかしさが溢れる文章が、

一人語りのラジオを聴いているかのようであり、熱情が迸る感じが妙に楽しく、

そこへ地の文での批評が組み合って、読んでいて不思議な気分が充ちる。

この文章を読んだだけでも儲けものでしょう。

 

この読書ノートは、1年生の時の担任だった古典担当の教師による「朝の読書」での提出していた、進級してからは「朝の読書」が「自習時間」となり、対象が全学年となって自由提出となり、提出者はほとんどいなくなったが、少女は少数派のつける側、とあるが、この内容を提出しているのか…?正気か…?と思うのは、読書ノートの読み手への妙な親愛さを、外部の読み手として一読感じずにはいられないからだろう。この後も引用されるのだろうか。


数回その文章、字面、前の段落を読み返しても意味をつかみにくい箇所があって、
そのまま先へ行きつつ、でも気になってその箇所へ戻って自分なりに理解できるよう考える、これはなかなかに噛みごたえのある小説だ…しばらく集中して読み進めよう。

 

 

以下、47ページより引用。

自分の考える読書、読むこと書くことを撫でられているかのような感覚と、

読み返しても後半の文意をなかなか掴めなくて、印象に残った。

 

一人の部屋で、今一度書き終えたばかりの文章を読み直している少女は、悩みなど全くないように見える。書くことそのものに喜びを見出す性質が、今まさに書いている己を亡き者としてしまう。例えば、水族館への誘いを断られた出来事についての信憑性はかなり疑わしいものがある。数行を埋めるために収まりのいい嘘を書いてみたとすれば、その時彼女は得意である。それでも読後、余白に目を向けた顔が翳りゆくしか道がないように推察されるのは、この一ヵ月の少女の暮らしぶりを鑑みてのことだ。書かれたものというのは、ほとんど一瞬目を離した隙に、作者と読者と世界が鼎立するその中心というよりは重心に巧妙に位置され、今後一切、変動するその位置へと引き離しておくために読まれ始める。いつまでも得意な「善悪の字しりがお」とやらをしてはいられないのである。