雑記 - 最近観たもの読んだもの
仕事が正念場に入っているので、しばらくはそちらに振らなければいけない。
読書や映画は少しずつでも行っているので、ここにメモで置いておく。
○読了
・山本一生『競馬学への招待』
→ 競馬に関する様々な書籍からの引用を交えつつ、馬、騎手、調教師、生産者、観客等の歴史の一端を紐解いていく、「歴史が築かれた理由を知ることは楽しい」を地で行く本だった。増補版も読みたい。
・ギミー「アイドルマスター シャイニーカラーズ シャニマスえぶりでい!」2巻
→ 巻末のアンティーカ編は、初めて読んだが描き下ろしで合っているんだろうか…こがたんはこがたんだった。火星人に擬装した霧子はかわいい。
・金井美恵子『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』
→ アッバス・キアロスタミへのインタビューがまた素晴らしい受け答えで、インタビューはこのようにして花を受け渡し辿り着きたい所へ昇っていかなければ読み応えがなかなか生まれないなと思った。何度も読み返す本。
・ちくま文庫編集部『ひりひり賭け事アンソロジー わかっちゃいるけど、ギャンブル!』
→ 競馬の章での、幸田文「二番手」の文章の幸福度にやられてしまった。
己が思う幸福について、ストレートに爛々に世へ放つ文章がとても魅力的、これはもう著作を読まなければならないな。
・鬼頭莫宏「姫さまのヘルメット 鬼頭莫宏短編集1987-2022」
→ 店頭で見かけて刊行していることを初めて知り、即購入。
2004年刊行の短編集「残暑」がとても好きなので、その収録作を含めて、近年の作品もハートフルでかなり良かった。
「残暑」「パパの歌」「風の王」「バスを釣るなら」「姫さまのヘルメット」の余韻が好きだ。「残暑」のラストページの視線、すーっとした後を引く読み心地、今もなお素晴らしい。
「彼の殺人計画」は結末どうなるかと思っていると、ああ、その死角が…すごい締め。
そして、巻末の仕掛けにはびっくりして、息を飲み、得も言われぬ情感があった。おすすめの一冊。
○観了
→ ラスト、急の坂道を車でひいこら登ってはずり下がり、いよいよ登りきって、道案内してくれた人を途中で拾って去っていく長尺、遠景のカットがとても好きだ。
金井美恵子によるアッバス・キアロスタミへのインタビューを読んで、息子が先の展開を打破している、皿洗いをしている女の子たちの悲しみとそこから生きる日々を湛える表情など、見所のとても多い映画で、これもまた何度も見返す映画となった。
実際に見返して、ああここはそういう意味でつながっていくのか…とため息をついた。
「オリーブの林をぬけて」も近々観よう。
読書雑記 - 金井美恵子『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』
仕事で頭がいっぱいいっぱいになりがちで、纏まって本を読めないのが気がかり、ここを書くのも少し間が空いてしまった。
金井美恵子『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』を読み進める。
まだ今日の陽は高いが、良い文章を読んだなあと思ったので、ここに引用する。
「映画は世界を越えて旅をする」のタイトルにて、ルイス・ブニュエルのメキシコ時代の映画が公開されたこの数年でブニュエルの「前衛の難解な映画作家」というイメージがぬぐい去られつつある、その喜ばしさを現した文章。
ブニュエルは、多くの人々がそう勘違いしてしまうような「ブニュエル的」なものだけで成立している映画作家では決してない。もちろん、「ブニュエル的」としか呼びようのない映画的な瞬間は、随所に、メキシコの鮮明すぎる豊富な光の分量を浴びて輝くのだし、夜の持つ奇妙な悪夢の光も画面を充たし、他の誰も撮ることなど出来なかった『エル』のような傑作がメキシコで撮られはした。
しかし、他の多くの映画--言うまでもなく、ハリウッドの--を思い出させるフィルモグラフィーを持ち得たことが、ブニュエルの真の偉大さなのだ。
( 中略 )
四〇年代の後半以降、黄昏をむかえることになるハリウッド映画「黄金時代」のテクニックは、メキシコという奇妙な映画の国で、かつて、ヨーロッパで『黄金時代』というタイトルの前衛映画を撮ったブニュエルによって語られていたのだから、まさしく映画は無国籍な幻影として世界を越えて、旅をするのだ。
映画雑記-アッバス・キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」
アッバス・キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」を観た。
堂々と間延びしたカットと会話へツッコミというか茶々を入れながら、映像に惹き込まれ、締めくくりにそれで良いんだ、そうか良いのかと少し呆然とした。
アハマッドの健気さが報われたというか、なんというか…はあー、と感嘆の音を漏らす。
お母さんは聞く耳をあんまり持ってくれないし、
アハマッドはぐずぐずと考えたり行動に踏み切ろうとして周りをキョロキョロしたり、それらがほぼ素材のままにごろんと映し出されて、より切実さと滑稽さが伝ってくるのがとてもおもしろかった。
いざ、という時に力強く駆け出すのが良かったなあ。
2回映し出される、ジグザグの山道を登り、てっぺんから左へまっすぐに下っていく様を、高台を見上げるように映した全景のカットがとても魅力的だった。
最初は1人、2回目はロバに乗ったおっさんを追っての駆ける子供の姿は涙ぐましく、自然はただただ綺麗。
タイトルそのままに、使命感から家を探して手ほどきを受けながら徒労に終わり、
( おそらく )父親に叱られたのか夕食を食べる気力が湧かず、
部屋に移ってから母親にまた夕食を出される優しさを受けながら、
家の外に強風が吹き荒れて洗濯物が乱れて母親が取り込もうとしているのを、
宿題をしながらぽかんとして見ているアハマッド、まず視界に起きていることを見るというのが意識に立つのか、そこからの行動がなかなか出ないのが、8歳の子供らしさなのか、そういうものでもないのか、その年齢から遠く離れ接することも無いと、こういうのもカルチャーショックになるのだろうか。
それにしてもぽかんとした表情、キラキラした瞳が眩しすぎる。あれはすごい…。
あと、めちゃめちゃ鮮明に鶏の鳴き声が聞こえるのが妙におもしろかったな…。
友達のノートを間違えて持って帰ってきてしまい、宿題ができず、退学させられるかもしれないので届けたいアハマッドと、手洗いで洗濯しながら子守りや宿題をまず行うよう言いつける母親、その周りで聞こえる鶏の鳴き声…。
無常感というか、吹っ切れるには良いアクセントになっているというか。
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保坂和志の著作から十何年も前からタイトルだけは知っていて、なかなか観る機会を作れなかったけれど、去年のザ・シネマでの放映とAmazon Primeにてようやく観ることが出来た、そして観てとても良かった!
早い内に「そして人生はつづく」を観よう。
読書雑記 - 金井美恵子『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』、「鴛鴦歌合戦」
金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み終えて、
タイトルにちなんでいる「鴛鴦歌合戦」がAmazon Primeで観られるので、
良い機会だと思って観た。
ミュージカルで時代劇、その折衷での陽気な歌と表情が観ていて楽しい作品だった。
男女肩を組んで駆ける様が妙に印象に残った。
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金井美恵子『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』を読み進める。
述べられている映画や俳優、スタッフ等、そのほとんどをまったく知らないので「こういう世界があるんだなあ…」と今は思うほかないが、この先にまた読む時にはもうちょいピンとくるようにはなっておきたい、という意思はあるのだ。
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本棚から読みたい本をすぐに取り出して読めるのは快感だなあ、と改めて思う。
映画を鑑賞するという悦びについて書かれたエッセイを纏めて読んで、本棚に仕舞い、その奥に西原梨花「落ちてるふたり」全2巻を見かけて、
映画好きな子が出ていたなと思って読み返す。登場人物はみんな愛らしい人たちで、もっと続きを読みたかったなあ、という気持ちがまた高まる。
より恋愛ものとして進めていく道筋はあっただろうけれど、でもこの得難いほんわかとした感じは霧散してしまうから、ここで終わりはしょうがないか…。
こうして読書は続いていく…。
読書雑記 - 金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』
金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み終える。
舌鋒の鋭さと、対象への親愛さを隠さない時の美しさをまるまる楽しませてもらったという気持ちで満たされた。こういうエッセイ集は何度も読んでその経験を追憶して自分も辿りたく、映画を少しずつでも観て、快感を得ていきたい。
「釣り上げられる男たち」を読んで、紹介されているハワード・ホークス「男性の好きなスポーツ」と、同監督の他の作品を観たくなった。
釣りをする知り合いとの「男性の好きなスポーツ」での会話が不首尾に終わる、「釣りのことはまったく無知でも、映画や小説を好きな人物にこそ、釣りの場面の出てくる映画や小説の話はすべきなのだ、ということを学ぶことになる。」という教訓もまた印象的だ。
そして今回( ? )も末尾の文章を引用する。
おかしみを味わうには、それまでの下りを読んでいる必要が、もちろんあるが、この抜粋からまた「釣り上げられる男たち」を冒頭から読み返して、映画を観て、きっとそのとおりと思うのだろうな。
ハワード・ホークスは『男性の好きなスポーツ』で、三つの教訓を男性に与える。
釣りは誰にでも( というより、未経験者にこそ )楽しめるスポーツである( 多少の危険はつきまとうことはあるが )。偶然と幸運こそが大物を釣り上げる、男はどう抵抗しても最後は女に釣り上げられる。
以上が三つの教訓で、これだけ知っておけば、女性は、釣りに関しては、もうシロートとは言えない、と、ホークスは語るのだ。
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さて次に読む本はと考え、『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ PART2』へはそのまま行かず、『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』を読み始める。
アッバス・キアロスタミへのインタビューがあるので、そこへ行くまでに、
録画している「友達のうちはどこ?」「そして人生はつづく」「オリーブの林をぬけて」を観ておくことにしよう。
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今年の読書の軸は古井由吉と金井美恵子の著作だな、と思い定める。
何年も前から著作は買い集めて、あとは読むだけという状態で時間が流れていたが、背表紙を眺める毎に読みたい気持ちがふつふつと沸き上がり、
高止まりのような感じになった今こそ始めの読み頃なのだろう。
ずんずんと読み進んでこう。
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これまでほとんど映画を観てこなかったけれど、週に1本は観られるよう、時間を作る。
録画はしていたり、Amazon Primeでウォッチリストに入れているものから、とっぷり浸りたい。
ここは最近の父親の姿を見ている影響かも。
1日3本立て続けに観られるもんなんだなと、今の内から親しみたい。
読書雑記 - 金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』
金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み進める。
読んでいる時間は朝夕の通勤電車内と昼休みでのおおよそ1時間弱( 読書以外に眠って休息していることがほとんど )、とにかくどんどん読みたいものを読んでいきたい。それにつけても頭の悪い文章だ。
『映画--快楽装置の仕掛け』山根貞男
『映画が裸になる時』山根貞男
上記4冊同時の書評(!)より、痺れるというか、おおこれは良いな…と思う文章があったので、引用する。
あなたが思う愛や美へ呆れるほどの情熱に身を捧げた甘やかな姿を目にしてしまえば、
こちらは否応なく感化されてしまうというもの、
そういうものに出会いたくて私はページを捲っているのだ、と読んでいてどんどん嬉しくなった。そう、その言葉があれば、読者はいつでも次の世界へ飛び込む準備が出来ているのだ。
四冊の映画の本を作った批評家たちに共通しているのは、読者を映画へと勧誘しながら(読者は映画へと勧誘されながら)、映画について語ることや書くことの情熱をはるかに超えて、「見せたい」という心のかたまりを私たちが感知することが出来、しかもその心のかたまりを幸福な無言によって受け入れることが可能だということなのである。
「これは、さすがのお二人とも見ていないでしょう」と淀川長治が、妖精のようにずるそうにニヤリとして(多分……)言う時、それはお互いの映画への愛に対する敬愛の念であると同時に、見せたいねえ、という心からの真実の声なのだ。
「これを見せたい」という声から「愛」以外のものをかぎとってはいけない。私たちは、頬を輝かせて、「いつでも巻きこまれる準備は出来ています!」と答えればいい。
読書雑記 - いろいろ読み進み
気づけばここを書くのが2週間経っていた。
どうも平日の半ばから仕事による疲労でへとへとになって、思うように読むことが進まず、よって書くこともなく、うーむ…という感じで日が重なっていった。
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2週間、休み休みでいろいろなものを読むことは行っていた。
乗代雄介『十七八より』は116ページまで読んで一旦ストップ、今は小説を読む意識から離れてしまったので、回帰したらまた読んでいきたい。
それにつけても冬の間は小説を読む根気がどうも持続しない。もっと読みたい。
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kindle unlimited で赤松健「A・Iが止まらない!」全9巻を読んだり、
三浦靖冬「薄花少女」全5巻を再読したり、マンガはぼちぼち読んだ。
時代性というのをちょっと考えたりした。
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小説が頭に入らなくなったので、そういう時はエッセイを読みたい時だということで、
ここが読み頃と金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読み始めて、およそ1/3ほど読み進めた。
つまらない、陳腐な、その文章を読んで次の文章へと誘わない言葉に対して、
辛く、手厳しく、モラルに則って辿り着きたい所へ行く文章が、読んでいてとても楽しい、こういうものを読みたいから読書しているのだ。
石川淳への追悼文の一つ、「感想」は全文引用したいくらいに、
読むべきものと出会うことの喜びについて書かれたもので、その末尾の文章は、
何度も深く首肯できるものだったので、引用する。とても痺れる文章だ。
--文学のおかれた危機的状況におびえて、小説は変わらなければならない、などと口走る醜悪さと、見事に無関係だった小説家を、私たちはまた一人、失ってしまったということになる。小説や文章の持つ「豊かさ」というものを、どうして、死んだ作家にばかり求めてなくてはならないのだろう。良いインディアンは死んだインディアンだ、とまで言う気はないのだし、人生というものは、自分の好きな作家たちが死んで行くのを次々と経験するということなのだろうし、残された作品はしかし、常にそこにあって読むことがいつでも可能だということなのだろう。だから、誰も死んだりはしていないのだ。本のページを開けば、そこに「石川淳」がいる。すなわち、文章という精神の運動が働き出す。