雑記 - 植島啓司『競馬の快楽』
植島啓司『競馬の快楽』を読み終えた。
レーベルは講談社現代新書なので、タイトルにある快楽性を様々な文献から紐解いたり研究、探求の精選が展開されていく書籍なのかな、と思って読み始めると、良い意味で肩透かしを食ったというか、著者が心血注いだ競馬、賭け事についてのエッセイが、種々の文献、同じ時を過ごした人たちとの経験をまぶせながら綴られている書籍だった。
なので、ここから知識を得たり参照したりというよりは、 著者の賭け事の語り口に乗れればパラダイス、そうでなければ野放図に手が広がっていく(競馬、ブラックジャック、闘鶏…)様に呆ける感は出るだろう、で、パラダイスなのでした。
読んでいる感じは山本一生『競馬学への招待』 『競馬の書斎学』を読んでいるのが近しい感じ、賭ける側からの、競馬、賭け事のエトセトラを並べていった本書は( いろんな媒体に掲載された原稿を基としているとのこと )、ギャンブラーによる、これまでもこれからもギャンブルをして「遊びは身を滅ぼす」を地で行くことを本望とする、告白と表明の書であり、こうもあっけらかんに綴られていくと、なんだか頼もしく思えるのだった。
とてもじゃないけど真似はできない、向こう側の人によるものだからおもしろい。
*
印象に残った所を引用する。
自分がギャンブルをしている時、そうでない時でも、人生を過ごす中に響く文章が、確かな経験、視座から放たれていて、受け止めた。
昔だったら一〇〇ドル負けても、一晩中一睡もできなかったものである。今ではその一〇倍負けても、あまりダメージを受けていない自分に気づくのだった。それはやはり悲しいことだった。
124ページ
競馬にはさまざまな楽しみ方がある。無邪気な数字合わせから血統のドラマに至るまで、それぞれが自分なりの楽しみ方を見つければそれでよいと思っている。だが、その一方で、真剣に必勝法について考えることもまた大事なように思われるのだ。幾度かの挫折を繰り返しながらも、その可能性の一つの極限にまで至ったベイヤーの真摯な試みこそ、現在もっとも注目に値するものではなかろうか。
174-175ページ
ぼくはこれまでも幾度か繰り返し書いてきたが、競馬の効用、つまり、ギャンブルの効用の第一は「負けた時どう振る舞うべきか」を教えてくれることだ。勝った時のことは別にどうでもいい。長くギャンブルをやってきた人間は、これまで多くの修羅場(と言うほど大げさなものではなくても)と出会ったはずである。何がしてはいけないことか、何がしていいことか、身をもって学んできているはずだ。
(中略)
問題は負けた時のこと。たいていの人が心理的に落ち込む。負けが大きければ大きいほど、その度合は大きい。そんな時、無理をしたり、バタバタしたりする。誰も普段と同じようには振舞えない。人生ではそういうことを経験するチャンスは想像以上に少ない。もしあったとしても、それはかなりせっぱつまった局面である。それによって人生の成り行きが左右されてしまうような時だ。それなのにリハーサルなしときている。つまり、人は必ず深みにはまるようにできている。誰でも勝つ準備はできている。だが、負ける準備は十分できていないのだ。
ギャンブルをする人間は、大敗している時どう振舞うべきかを知っている。それは他の何よりも大事なことだ。自分の思うようにならないツキの波を、それとなく押さえ込んでいくこと、自分の力が本当はとても小さいものだと理解すること、どんな局面になってもたじろがないこと、さりげないきっかけにいつも注意しておくこと、他人に迷惑をかけないこと、敗北が一過性のものだと明確に認識していること。
230 - 231ページ
