暗闇のほとりで

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雑記-古井由吉『半自叙伝』

 古井由吉『半自叙伝』を読み終えた。

 年末年始に集中して読み進め、この連休で「創作ノート」後半以降を読んで、一息ついた。読んでいくうちに、自分がもやもやと感じる先行きや考え事等が、捉え方を変えてみてはどうかというヒントを徐々に得て、気分が今は底にないと思えるようになって、良かった。

 取り分けて自分の今の年齢-30代後半からその先での行動、思考、時の印象を記した文章が、先人の一つの道を辿ることができて、おそるおそるでもしっかりと渡る他ないな、やっぱり、まずはそう行こうと自分に了承できた。

 

 30年の時を隔てて刊行された2個の作品集に収録された、自身の生まれてこれまでを「創作ノート」「月報」として認めたものと、書き下ろし「もう半分だけ」を収録した本書。

 ( 今年1/3に書いた記事より引いて )このエッセイを通らないと、俺はきっと『山躁賦』『仮往生伝試文』『白暗淵』へ辿り着けないだろう、という実感があるくらいにそれらの壁は聳えているのが、著者が一人の人間として、生活を営む壮年の人間として、作品に着手して書き上げた時の移ろいにて少し身近に、一気に作品として提出されたわけではないことを知れて、ハードルがようやっと見えてきた。
 まずは今読みかけている『聖』を読み通すことが、行うこと。競馬に関連して、「中山坂」も読みたい、『野川』も読みたい、著者自身が燥いでいるという長編、短編も読みたい、どこかで「杳子」を読み返すこともあるだろう…楽しみは尽きない。

 

 書き下ろし「もう半分だけ」より2つ引用する。

 

 それにしても、同じ事柄でも中年からと老年からとでは、その記憶が違ってくるものだ。多くの場合、年月を経たほうの記憶を間違いとしなくてはならない。しかし、それでは後の記憶を取り下げるべきかと言うと、そうとも限らない。そちらのほうが、輪郭はぼやけても、生涯にわたる意味合いをふくむことがある。記憶は年を取るにつれて末端から枯れて行くが、根もとのあたりからふくらみ返して来もする。それ自体が生き物であり、あるいは記憶の主よりも、その認識よりも、生長力があるのかもしれない。記憶の音は実際の体験に留まるのか、それを突き抜けて深く降りるのか、判じ難い。

 

 見た事と見なかったはずの事との境が私にあってはとかく揺らぐ。あるいは、その境が揺らぐ時、何かを思い出しかけているような気分になる。 そんな癖を抱えこんだ人間がよりもよって小説、つまり過去を記述することを職とするというのも、何かとむずかしいことだ。 それでは文章が、どう推敲を重ねたところで、定まらないではないか。しかしまたそんな癖の故に、この道へつい迷い込んで、やがて引き返せなくなったとも思われる。吃音の口にも似て詰屈したこの手がたどたどしく、切れ切れに繰り出す、その言葉のほうが書いている本人よりも過去を知っていて、生涯を見通しているような、そんな感触に引かれ引かれ、ここまでやって来て、まだ埒があかないというところか。

 

 考え続けること、書き続けることによって放たれる言葉が、人をどこへ辿り着かせようとしているか、その思いがけなさ、底知れのなさをまた改めて認識させられる文章だった。老年となっても、まだ埒があかない…、この後に配置された、自身の年の取り方についての考えを読むと、この作家の凄みを感じる。小説、エッセイ、作品を読み進めていこう。