暗闇のほとりで

読んでいる本についてつらつら書いています

雑記-武田百合子『富士日記』下巻、古井由吉『折々の馬たち』、等。

 武田百合子富士日記』下巻を読み終える。

 引用二つ。

414ページ

 今年の夏も無事に終った。だんだん夏が短くなるように思える。 今日、私が雨に濡れて戻ってきて、台所の床で滑って溜息をついたら、「お帰りなさい。ご苦労さん。俺、何にも手伝えないから、トラが一人で大活躍」などと、 ねぎらってくれるのだ。あの人は食堂の椅子に腰かけてこっちをみながら。そんなことは言わなくてもいいのに。私は一人でこうしていると、のどがつまってくる。

 夫・武田泰淳の病状が日に日に思わしくなくなる中の、ここのやり取りに、読んでいるこちらも自身の身近な記憶たちが思い起こされ、胸が詰まる。

 

383ページ

 三時にタイヤキを食べるとき「タイヤキがこんなにうまいなんて知らなかった。何でも馬鹿にしたもんではない」と、私に訓示を垂れる。私は「生れてから、一度もタイヤキを馬鹿にしたことはない」と言う。

 読んでいて妙なユーモアにふふっと笑いを誘われてしまった。俺も一度も馬鹿にしたことはないな、タイヤキ。良い返しだな…。

 

 日記を書き留め、読んで追憶する、そうしたい意思は始めた時には強く意識していなくても、追々、生活が変わっていくごとに意味が帯びていく、読み返しては懐かしいその人たちの姿が立ち現れるから、やっぱり書いておいた方が良い、と思う。

 そんな事を考えながら、大岡昇平『成城だより 付・作家の日記』を読み始める。文学 / 物語理論に言及している箇所はこちらに素養がないのでちんぷんかんぷんで読み飛ばし気味、また引っかかるときが来たれば当たるだろう。

 

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 古井由吉『折々の馬たち』を読み終える。

 「雨の中山 芋の月」内にある「澄んだ目で」の、競馬場で馬券を買う風情が読んでいてなんだかもう、たまらないものがある。

 競馬場に行くと、いつでも来ているような老人の姿が見受けられ、レースごとに二、三百円ずつ、うしろからのぞくとなるほどおもしろい馬券を買っている。私もいつか隠居ということができたら、あれをやりたい。となると、いまのうちから、あのやり方を、タシナンでおくべきか。

 

…(中略)

 

 それからゆっくりと窓口に行き、例の老人(あるいは老人たち)の姿を思い浮かべながら、連勝を二点だけ、ちょっぴりずつ買った。三頭選んでおいて馬券は二点、一点はわざと抜いておくところなどは、聖人の道といえるぐらいなものだ、とひとり悦に入った。

 この金額ならのどかにレースを楽しめる、いつでも、こうありたいものだ、とスタンドに早めにもどってレースを待った。こういう時は、心のほうも澄んでいるものだから、見こんだ馬はたいてい来る、しかし入るのは、どうせ、抜け目のほうだろう、と淡々と思いながら。ところが二点のうち、千八百円あまりのほうが、ズバリ来てしまったのだ。

 シマッタア-いや、はしたない。本格的に買っていればよかった、と呻く心をかろうじて呑みくだすと、その底からほのぼのと、いやあ、こういうものですよ、欲がないので見える、見えるから来る、来てもちょっぴりしか買ってない、つぎに欲が出る、目がくらむ、たくさんつぎこむ、これを幾度くりかえして来たことか、と喜びがとめどもなく湧いてきた。

 本当に、馬券が当たる、心が浮いて次につぎこむ、たまに大きく出られてこその的中馬券を手にする時もあるから、その未来がちらついて厄介、しかし、すんなりと馬券が当たった時の喜びは、引用のように、いつになってもかけがえない。

 馬券での喜怒哀楽、現役、引退馬の今を生きる様を直に目にしたり、過去のレースでの走りぶり、相手馬との競り合いを思い返して、感情が動いていき、巡る歳月を馬、レースとともに重ねていく様が、自分もこうありたい、と一競馬ファンとして強く思うのだった。また競馬場で、パドックとスタンドをうんうん悩みながら行ったり来たりして、レースを観たい。

 それにつけても、「優駿」誌に掲載された連載やその他競馬関連の文章について、完全版を読みたいところ…古井由吉全集がいつか出る時、そのすべてを読んで、古井由吉を通して競馬という空間に放り込まれたい。出版社への希望を投書すれば良いのか、今後の刊行物でのハガキに持続してリクエストするか…連載を通して、1980年代後半 - 2010年代後半の競馬を、達人の目からまた見通したい。

 

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 ここのところ明晰夢を見る日がぽつぽつとある。疲れを取ることにもっと向き合わないといけない、と考える。精神的にキツイと感じるのも、過度の心配、怯えから来ているような感はあるので、心を和らげる手立てを少しでも加えていきたい。浴槽に浸かることからかな…。読書してリラックスできているのは実感している。