暗闇のほとりで

読んでいる本についてつらつら書いています

読書

 ここ10日もいろいろと本を読んだが、それらの感想について記すのはまた後日として、今日読みおえた橋本治『若者たちよ! 橋本治雑文集成-パンセ2』若者たちよ! (河出文庫―橋本治雑文集成)から考えたことを書き出す。おそらくオチはない、考えつづけるということを書いているはずである。

 『若者たちよ!』という本は、80年代の終りまでに執筆したコラムを書名にある「若者」というキーワードからまとめたもの。その中に所収の、女性誌にて発表した「明日のために、とかー」というコラムには特に考えることが多かった。
 「明日のために、とかー」は20代を過ごしている人間へ、自信を持って生きているのならそのままでいると先は危ないよ、自信がないまま生きているのならその先を考えていかないと危ないよ、じゃあ何が危ないの?それはー、という人生訓を記しているコラム( あとがきにて著者はこういう「常識」な文章が嫌いであると書いているが )で、来年で20代が終わろうとしている俺にとって響くものがあった。
 響いたことは、やがて訪れる「感性の曲がり角」ということである。以下、文庫版162ページから引用する。

 二十代で一番肝要なことっていうのは、つまんない自信なんか持つなっていうことね。そこそこの評価に満足してる自分を見つけたら、もう「バカ!」って言ってやることね。そうしないと、その先ってないですよ。そこそこの栄光にあぐらなんかかいてると、昨日の自分が平気で嘲笑ってたようなつまんない人間に、簡単に落っこちるんだね。十代で社会に出た人は、二十三、四がそんな頃ね。二十代になってからの人だと、二十六、七がその頃で、そこでシャープになるか怠惰になるかで、一切が分かれるんだな。感性が平気で麻痺したりしてね。
 別にお肌の曲がり角とは関係がない"感性の曲がり角"だってあるんですね。「あ、なんかやばくなってる」ってことを本人がどっかで気がついたら、それですね。もう今までの自分のやり方じゃすべてにフィットしなくなってるんだ。「大人の女になる」っていうのは、大体ここら辺の年頃なんだけど、ここで飛ぶ時に一番注意が必要なんだな。
 問題なのは、どういう大人の服が似合うか、じゃないんだな。どういう子供の服がもう似合わなくなっているかっていう、そういう感性のシェイプアップなんだな。

 仕事や家での過ごし方といったことにも上記の考えが大いに触発されつつ( こちらは本文に沿ったもの )、主に俺が接している娯楽についてここ何年も考えていることがより明確になったのだった。
 俺の娯楽への「感性の曲がり角」、ここで対象となる娯楽は読書、アニメ、音楽etcである。それらについて書き出してみる。

 読書では小説を高校生の頃から読むようになり、その入り口は講談社ノベルスのミステリで佐藤友哉森博嗣を読み、その佐藤友哉舞城王太郎が文芸誌に発表したものを読むにつれて保坂和志を知って読みはじめ、今は講談社ノベルスどころかミステリを読むことすらほとんどなく、おもしろそうな小説であればなんでも読んでみる、というところに落ち着いている。
 派生してエッセイや評論といった書籍もここ数年でぽつぽつと読むようになり、こちらの冊数を多くしていろんなことを知ってゆきたいと考えている。こうした感性の変遷は、読書を始めたそもそものきっかけが「この小説はおもしろい!」という経験からで、一つのジャンルからぽんぽんぽんと様々な点へ飛んでゆくことが無上に楽しいから出来ていることでもあり、ずっと同じところには居たくないという気持ちがあるから、いろんな曲がり角を超えてきた。きっとこのままいろんなものを読みつづけるだろうけれど、根っこはミステリ、謎解きであることは忘れていないのだ。
 アニメは毎クールの新番組10数本を録画してはいるが最後まで観るのはおよそ5本。これまでの作品を観ることは今のところCSチャンネルでの放映で目ぼしいものがあれば観る程度。放映されていたら観る、という感じであるが、今期の「プリズンスクール」を観てしまうと、アニメへのアンテナはしっかりと立てておかなければ、と背筋を正される、そういう作品に出会うことがある。その時に感性を磨くことを考える。……と思いつつ、この秋は観るものがあまり無さそうなので、録画したまま手付かずのものを観ることになりそうだ。そこからまたいろんな作品を知り、観ていくのだろう。

 さて感性として気にかかるのが音楽である。ここが今の俺にとって切実なところ。
 結論から述べると、聴きたい音楽の知識があまり更新されていないのだ。更新したい気持ちはずっと感じている。
 レンタルショップから借りてきて聴くことを10代に主に行っていたけれど、20代になってからは通うことが少なくなり、いよいよレンタルショップも周りから無くなってしまった。どうしても聴きたいミュージシャン、つまり中村一義の音源は購入しているが、それはほんの一握り。アニメのOP・EDで気になったものをiTunesで購入や、youtubeでちょこちょこ曲を聴いたりもするが、その曲止まりで派生が終わる。そして10代の頃に聴いていたものを繰り返して聴いている……ここに感性の衰えをひしひしと感じている。10代の頃から聴いている音楽を今も聴くことにより、この歌詞ってこういうことを歌っていたのか、と気づくことが多々あってより聴きこむ流れになっており、それはそれで良いのだが、他にもっと良いものも聴きたい!という気持ちがずっとある。けれどその良いというものは何なのか?そして、10代の頃に聴いていたものだけをこれからも聴きつづける視野の狭さから脱出したいという気持ち。
 振り返ると、音楽は読書ほど自発的に選択して当たっていったわけではなく、高校生の時に和洋問わず聴いていた友人( そのまた友人 )たちによる影響が大きい。
 高校を出てから音信を取ることはどちらからもないので友人と呼べるかは心許ないが、その時は友人であった。友人たちからこれええでと教えてくれたものを聴き、おお確かにすごい!と反応し、そう反応したことを言葉にして友人へ返し、また俺から教えたり……といったやり取りをしていたしあわせな時期が確かにあった。そこで知った音楽はその時のシーンに台頭していたものもあれば、2,30年前のものもあり、スピーカーから流れる音に耳を澄まして心が踊ったのだ。
 ……そういった頃から時が過ぎて、音信は途絶え、音楽の知識を得る拠り所は自分ひとり。そして訪れた、「何か新しいものを聴きたいのに何を聴けばいいんだろう?」という問い。
 読書のように自発的に当っていくものでないところから始まりシフトチェンジも行えずに来たからか、尋ねる相手がいないーー自分の中にもいないということはなかなか辛い。ポップのついた新譜を聴いたり音楽系の雑誌や書籍を読むなりラジオを聞くなりという方策があり、思いついて実行してみたものの、いずれもしっくりこず、すぐに問いに戻る。そのままで怠惰に過ごしていたら、いよいよ知識が更新されにくくなってしまったようだ。知識を掴めず、大体の曲が耳を通過して残らなくなっていく。ここに、対象の音楽が良いものであるかどうかを判断する力が衰えていることを弁える。俺に響いてこないのはそれが良い音楽ではないのか、それとも俺の感性が違う方向になっている、そのことを明確に出来ていないのではないか?と考えている。
 己の感性を見つめ直すというのはかなりの苦労を伴う作業だ。これまでの自分を捨てるという行為が必要なのだから。新しいところへ踏み出す諸々の面倒な手続きも発生するだろう。しかし行わなければ、引用にあるような、もっと大きく豊かな経験を手に入れることは出来ない……そう思い、この文章を書きながらFMラジオを聞いている。
 良さそうなミュージシャン、曲はまだ俺に当たってこない。
 1、2日だけでなく、長い期間で肩の力を抜いてつかず離れず聞きつづけてみる必要がある。
 今の俺の感性ではそうすぐには受け止められないだろう。
 受け止めることが出来ないことも判断のひとつだ。
 けれど、「さあ 僕に当たれ」( 中村一義「運命」 )かのように、自分から、待っている。


 ……いつにもまして取り留めのない文章になった。なんともはやな自分語り。
 20代を過ごしてこれから先の人生を臨む、その上で重要なことは、「明日のために、とかー」以外のコラムでも縦横無尽に語られており、それらは先に生きている者からの愛情としての挑発であり、大変な知見を得た。望月峯太郎バタアシ金魚」を論じた「思い通りにいかないことはぜんぶ認めねーぞ、俺ァ ーまたは、妄想としての現在」での、ほとんどの人から認められない生き方で現実を戦い抜くその達成についての評に、きらめいた知性を感じる。あとがきに「やっと自分を語るべき対象にめぐり会った、というようなもんである」とあるけど、この評論はまま橋本治論とも読めるのだ。この特異な人の行き方!
 本当、知性をたどるというのはバタバタと興奮が伴うものだ。もっといろんなものを取り込んでいきたい!そういう生き方を、俺はようやくはっきりと志向しているのだ。30代以降に何と出会えるのか、楽しみでならない。この脳天気さは、手放したくないな。

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