暗闇のほとりで

読んでいる本についてつらつら書いています

雑記-阿佐田哲也『麻雀放浪記2 風雲編』

 阿佐田哲也麻雀放浪記2 風雲編』を読み終えた。

 ここ2ヶ月ほど、小説を読めておらず、流れるように小説を読みたいという気持ちになってきていたので、阿佐田哲也麻雀放浪記』2巻を手に取りあっという間に巻の後半へ行きそのまま読み終える。

 少年マガジン掲載の「哲也」を連載で読んでいたので、ドテ子の懐かしい名前と印象がまた変わる。クソ丸もあんな感じでいたっけかな、とぐろは憶えている。

 

 麻雀のルールは一度勉強しようと入門書を読んで、まったく頭に入らず、自身がプレイするもののの埒外にあるという認識をしているので、役についてはほぼほぼ飛ばして読んだけれど、博打で於いてのみ成立する金と尊厳の渡り合いの会話、思考の流れにヒリヒリし、この坊や哲への興味が絶えずつながっていく。子供の頃にドンジャラで遊んでいたはずだが…いつかプレイする機運を得たい気持ちはある。

 

 間を置かずに続きを読むことにしつつ、この巻にてちりばめられていた、勝負事で抑えておくべきことを、ここに抜粋しておく。馬券で良い目や痛い目に遭っている、結局それは自分の選択で引き寄せた結果だけれど、その時に考えていることをより明解に言語化している箇所や本書すべてを繰り返し読むことにより、自分の行っているギャンブル - 競馬や、それ以外の生きていく中での諸事にて参考としたい。

 

以下引用は文春文庫『麻雀放浪記2 風雲編』より。

73 - 74ページ

 私は親で四連チャンしていた。当然のことだが、手に速度がついてくると、相手の手作りが制限を受けてくる。こちらに合わせる手作りになる。これがよろしい。攻撃は最大の防御なりで、相手のペースのときには速く重かった敵の手が、此方のペースになってくると、速く軽い手になる。そこで、もうひとつ私が考えねばならないことは、速いペースにして相手の手作りが軽くなった頃合いに、今度はこちらが重い手を志すのである。

 敵は重い手、こちらは重い手。失敗して打ち込んでも損害は軽微。成功すれば収入多大。麻雀は結局、重い手を作った方が勝ちだが、そのセオリイは以上のような段階を踏んではじめて完璧なものになるのではないか。

 

90ページ

「それもあるがね、奴は皆のツキと勘とを計算してよく見てるんだ。一番アツくて一番勘が鈍ってる奴等の逆目へ張っていく。それも奴等の額に合わしてだ。決して自分の勘などを使っちゃいない。自然の理を生かす、ってさっきいってたが、それがそういうことなんだろう」

 

140ページ 

 勝っているときは、沈まないように打つだけでよい。クソ丸のセリフではないが、リードするまでが博打で、あとは相手によっかかっていればよいのだ。沈んでいるときは自然の風に逆らって打つ。当然のことだがえらいちがいになる。

 

 

雑記-よしながふみ『よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』

 よしながふみよしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』を読み終えた。

 マンガについて、自分の好きなもの、大切なもの、意見の形成の仕方についてなど、濃密な、まさにここだけのお話を読んで、いろいろと蒙を啓かれる感じがとても楽しい。 
 まだ見たことのない仕事の雰囲気について、別の性への憧れ、志を同じくはしないけれど助け合うこともある、…、BL、百合、やおいのそれぞれの意味合いについて、リミッターを外して語り合っているのを読んで、自分も見方について考える、チューニングしている感じが刺激的。
 刊行は2007年、今の時世とはまた異なる価値観が提示されているように思う箇所があって、変わっていったんだな、と思うのと、そこはどうなんだろうな、と思う所と、参照する時によって色合いが変わっていくように思える、興味深い考え方、歴史の紐解き方がここにある。たぶん、大きくは良い方へ向かっていっている、意思の力で。


 羽海野チカとの対談を読んでいると、かけがえのない人との会話、肯定、心遣い、寛容さ、生きていく上で大切にした方が良いエッセンスが満ちていて、これは手元に置いておかないとあかん本と確信。頭を使って物事や気持ちを整理してその頃を語る、目の前にいる人の感情を汲んで展開していく、少しでもこんな風に会話できるようになりたいと思う、良い手本だわ…。

 

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 三浦しをんこだか和麻等の対談を読んでいてつくづく思ったのは、自分はメタファーをそのままの意味でしか読んでいなくて、意味合いを本当によく分かっていないということ。
 作品外で意図が明かされてようやっと分かる、というのは、それはそれで気付きがあるから良いかもだがなんだかもったいなくもあるので、時代や流行の変遷といったいろんな背景と著者の眼差し等、目配せをして読むことができるようになりたい、もっと。

 

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「基本読書」の人の本書の感想。
本書を読んでいておーと思った箇所が引用されていて、そこからの感想がまた視点が異なっていて、こちらも読み甲斐がありそうだ。

 

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

 

 

 

雑記-佐藤正午『小説家の四季 2007-2015』

 佐藤正午『小説家の四季 2007-2015』を読み終えた。

 単行本版を読んでいたので、再読に当たる。この時期を読むと、現在連載中のネタの引っ張り芸( ? )は回を追う毎に磨きがかかっているんだなあ…と感慨を持った。文章芸の一つの妙。

 

 239ページより引用。 

いったい、いつ読んだんだよ、これだけの本、とあらためて自分で自分に呆れる。人生の、どれだけの時間を、読書に費やしてきたんだよ?

 

 事情があって実家に泊まり込んだ際に、自室の本棚を見渡して、整理しようと決めて処分する様、心の声がそこにあり、単行本で読んだ時に思った、「ここだけ切り取ってもだが、ああ、そうだな…と響いた」というのは今回読んでもそのままだった。
 自分はその足元にも及ばない量だけど、本棚を見返すと、今の読書量からは想像がつかないくらい読んでいた頃があったんだなと、やや呆然となる時はある。それはある。
そこに自分を形成してきた面があるからこそ、別の面の広さ、大きさ、可能性をまた想う。

 

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 現在もweb岩波 - 「たねをまく」で連載されている「小説家の四季」、掲載されている分は( たぶん )読んでいる、本書以降の連載分がまとまることを楽しみに待っております。

 著者の小説、もっと読んでいかないとな。読みかけの『ジャンプ』を近々再開させよう。

 

tanemaki.iwanami.co.jp

 

雑記-門馬雄介『細野晴臣と彼らの時代』

 門馬雄介『細野晴臣と彼らの時代』を読み終えた。

 細野晴臣を軸に据えて、1960年代から現在に至るまでの日本のロック、ポップスを事実、当時の記事、当事者たちの回想を織り交ぜて一つの歴史として照射した本で、大変読みごたえがあった。読み始めてすぐに、これはもうおもしろいノンフィクションものが持つそれやん、と嬉しくなった、息が合ったものを読む歓びがあったのだ。それは最後のページまで続いた。

 

 471ページより引用。

 思いかえすと、楽しい思い出がいくつもあった。はっぴいえんどを組む前後のころ、白金台の家で細野は眼鏡と丹前を身につけ、松本清張の真似をしてやってくる彼を出迎えた。狭山アメリカ村時代には大滝に請われ、家の庭でニワトリの物まねをえんえんと披露した。…(後略)

 大滝詠一が亡くなってからの、細野晴臣にとってその存在の大きさに改めて気づく中で、上記の文章がやってきて、吹き出してしまった。想像するだにシュールな情景…その後の記述を読めば文章が配置された意味は分かるけど、おもしろすぎる。松本清張の物まねは多く見かけるあのポーズかなと思うが、その頃のスタンダードな物まねだったんだろうか…。

 はっぴいえんどYMOの作品を齧る程度しか聴いていない身で、音に当たるだけでなく、発表前後の様々な流れを事実に基づいた記述から知ると、その時々の色合いが見えるようになり、違うアプローチで聴く、体験してまた音が響くようになってきた。サブスク片手に膨大な作品群に沿って、自分に合う、これまでとこれからのルーツを探りゆく楽しみが見えてきたようで、この本を読んだ意義は大きい。いろんな作品を聴いていきたいし、細野晴臣が今その時に放っていった作品、言葉を取り込んで、世界を見ていきたい。ということでようやくSpotifyを有料契約した。しばらく広大な音楽の世界を漂っていこう。

 

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 読みたい本や観たい映画、聴きたい曲、アルバムは増えていき、対面する時間、意識が流れていくのはどんどん速く、眠気は増して、一つひとつ向かっていくしかやっぱり道は無し。細野晴臣の作品をもっと聴く、読みたい。

 ラジオは毎週聴いたり聴かなかったりだけど、音楽の広がりを教えてくれる番組はもっと聴いて、手を伸ばしていきたいな。

山下達郎のサンデー・ソングブック
草野マサムネのロック大陸漫遊記」

細野晴臣の番組「Daisy Holiday! 」、

また毎週聴くようなモードになっていきたい。

 

 

 

雑記-矢作俊彦『新ニッポン百景―衣食足りても知り得ぬ「…礼節…」への道標として』

 矢作俊彦『新ニッポン百景―衣食足りても知り得ぬ「…礼節…」への道標として』を読み終えた。

 90年代前半の日本各地の「満ち足りた衣食の対価として」遺された風景を2ページ + 写真の形式でルポを読んでいく内に、同時期に執筆されていた著者の『あ・じゃ・ぱん!』のアウトラインを辿れているような気になった。

 田舎に遺された風景が、バブルを通過しなかった場合、バブルを通過してまだまともな判断がくだされた場合での批評を加えたオルタネートヒストリーとして描かれた側面はあったろうな、と読んでいてまた『あ・じゃ・ぱん!』の作品が頭の中で立ち上がってきて、それがとても楽しい。読者への要求が無尽蔵に高くて追いていくのにいっぱいな作品だったけれど、この本で著者たちが見て、聞いて書き記していった知識と情感( 私怨?もあるか )を仕入れてみると、また見え方が変わっていくようだ。千葉への痛罵がなんとも…。

 日本各地に出向いているので、東京や大阪のへんてこな風景もあるけれど、田舎に遺された風景の回を読むと、殊更に橋本治『貧乏は正しい!』を思い出す。あちらも90年代に書かれた、80年代からの築かれていく、崩れていく、省みられることなく亘っていく価値、景色と、それらを踏まえざるを得ずこれからどう進んでいくかを纏めた、読みごたえのあるシリーズだったと改めて感じ入る。どちらの著者も都会出身、地方出身でのこういった振り返りをしている本はあるのかな。その視点でも読んでみたい。
 この本は1995年刊、28年経った今も、この風景や建物はあるのかな…とGoogleストリートビューで見る、続いている重みを垣間見る。 続きの『新ニッポン百景―衣食足りても知り得ぬ「…礼節…」への道標として ’95~’97』は、読む機会を得られるかな…試みよう。

 

 

雑記-西尾維新『キドナプキディング 青色サヴァンと戯言遣いの娘』

 西尾維新『キドナプキディング 青色サヴァン戯言遣いの娘』を読み終えた。

 はったりに大言壮語、驚天動地なところへと至る様、戯言シリーズを読んだ!という充実感でいっぱいです。締めくくりがアットホームな趣きがあるのも魅力的。

 冒頭の「私は玖渚盾。誇らしき盾。」という文章を読んだ時も、読み終えてこの冒頭に立ち返った時も、この文章の力強さが作品を一貫していたんだなと、約20年前に戯言シリーズの一読者だった身から、『ネコソギラジカル』での「ぼく達は、幸せになった。」を引いて、青色サヴァン戯言遣いの娘にそれぞれの力が継承された意味合いに、しみじみとなりました。

 「アトガキ」にある「終わりでも始まりでもない続きという感じ」という言葉がこの作品をまさに照らしているけれど、これはもう、続きを読みたい、従姉妹の玖渚遠との信頼感のあるやり取りをまた読みたいじゃないか、そもそもがこの作品全体が新しいお話の前日談なのではないか…待望の新作を祈願します。

 

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 西尾維新『キドナプキディング 青色サヴァン戯言遣いの娘』読書中にツイッターマストドンに書き込んだ内容を転記しておく。読んで立ち止まって記しておきたいという気持ちが働いているくらいだから、やっぱり戯言シリーズは思い入れのあるシリーズだったな…。

 

講談社ノベルス、二段組だ!そこがまずもう嬉しい。そして饒舌な十代の語りに人類最強の請負人天上天下唯我独尊の振る舞い、掴みはオッケーだ。

・「畏まると殺される世界観なんですか? 畏まりました」そうよね…。
・「他人を自覚的に意識的に踏み台にできる人間ってのは、なかなかどうして怖いものがあるよな」くすぐり、サービス満点やなあ…。

・162ページより、 「娘が死んだら、パパは三日くらい地獄の底みたいに懊悩して、その後、誰かに励まされて立ち直って、なんか独りよがりな成長をしたりするんだろう。」 この記述が身も蓋も無さすぎて笑ってしまった。どこかで見たことがあった気のするやつ…。

・読書中、カバーの色合いが似ている感もあるけど、『サイコロジカル』を読んでいた時のことを思い出す。 読んだのは20年前だからはっきり憶えていないけれど、不可逆性が似てるような、懐かしいような。

・「雪洞さんが火急の用があると言うのなら、それは、火急の用があるという意味なのである。」
西尾維新流の言葉遊びなのか、進次郎構文をかましてきたのか判断しにくい表現が出てきて、妙に今を実感する。

 

雑記-大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論 』

 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』( 星海社新書版 )を読み終えた。

 宮崎勤の事件への言及、その比率が本の後半に入って大きくなり、被告と弁護人との理解の乖離を少しでも埋める役回りを任ぜられたと思しき著者の語りを読むに連れて、回顧を読む側でもそのしんどさは伝って、ため息をつく。

 「21章 あの日のこと」の末尾はその最たるもので、理解の外側、「企画」の成れの果てを見て、著者がここから世をどう行くか、という所に関心を持ってページを捲っていると、そのしんどさはより濃くなり、何度もため息をついた。

 自己実現としての凶行、プラットフォーム - 個人それぞれの倫理、等、著者の問題意識にふれる面が多くなっていく後半は、読みごたえがあり、かつ、凶行とその様を一側面から解くにつれて陰鬱さが増し、巻末に辿り着いた時はくたくたとなっていた。

 あくまでも本書は著者の視点からの80年代 - おたくの文化を雑多に現したものと捉えて、その前後の文化を考えるステップとして、今後も参照することになるだろう。

 

 同著者の『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』
『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義
アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』
『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代 たそがれ時にみつけたもの』
『物語消費論 「ビックリマン」の神話学 』と読み進めて、戦後の文化の流れを知りたい気持ちがあるので、それらの著者の作品や、別の著者の作品を読んで、輪郭を築きたい。

江藤淳と少女フェミニズム的戦後―サブカルチャー文学論序章』
サブカルチャー文学論』も読みたいが、入手できるかな…図書館には無いようだ。

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 『「おたく」の精神史 一九八〇年代論 』、著者の懺悔録のような気もしたな…。

 『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』とはまた違う読みごたえ、後者は書かれた年が前者から10年以上経っているからか、内容の性質もあるからか、ノスタルジーが正面に出てくることを厭わず振り返っている感があり、前者はその時代を生きた、様々な文化、考え方の兆しの一つを作った当事者としての責任に向き合っているため、その頃に浸る感慨は事象を現すには邪魔なため極力排して認めたという感じ。ただ後半はそうも行かない、抜き差しならない感が滲み出ていたなあ…。

 まだまだ思うことはあるけれど、より言葉にできるのは、著者の別作品を読んで文化と時代を知ってからだろう、ということで読んでいきます。

 

 …「エヴァンゲリオン」、観ないと8-90年代文化の一側面を理解できないだろうというのはますます伝わってきたが、観るかなあ…。